深草の里・おもて歌(文学史・本文・現代語訳・解説動画)

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今回は『無名抄』の「深草の里」について解説していきます。
教科書によっては「俊恵のおもて歌」などの呼ばれ方もあります。

この作品で大切なことは、会話文の把握です。
誰と誰が話をしているのか?ここをしっかり抑えましょう。

文学史

作者

鴨長明

成立

鎌倉時代

ジャンル

歌論書

本文

俊恵いはく、「五条三位入道のもとに詣でたりしついでに、『御詠の中には、いづれをか優れたりと思す。よその人さまざまに定め侍れど、それをば用ゐ侍るべからず。まさしく承らんと思ふ。』

と聞こえしかば、

『夕されば野辺の秋風身にしみて うづら鳴くなり深草の里

これをなん、身にとりてはおもて歌と思い給ふる。』

と言はれしを、俊恵またいはく、

『世にあまねく人の申し侍るは、

面影に花の姿を先立てて 幾重越え来ぬ峰の白雲

これを優れたるように申し侍るはいかに。』

と聞こゆれば、『いさ。よそにはさもや定め侍るらん。知り給へず。なほみづからは、先の歌には言ひ比ぶべからず。』

とぞ侍りし。」

と語りて、これをうちうちに申ししは、

「かの歌は、『身にしみて』という腰の句いみじう無念におぼゆるなり。
これほどになりぬる歌は、景気を言ひ流して、ただ空に身にしみけんかしと思はせたるこそ、
心にくくも優にも侍れ。いみじう言ひもてゆきて、歌の詮とすべきふしを、さはと言ひ表したれば、むげにこと浅くなりぬる。」

とて、そのついでに、

「わが歌の中には、

み吉野の山かき曇り雪降れば 麓の里はうち時雨つつ

これをなん、かのたぐひにせんと思う給ふる。
もし世の末に、おぼつかなく言ふ人もあらば、『かくこそ言ひしか。』と語り給へ。」とぞ。

現代語訳

俊恵が言うには、「入道のところに参上したついでに『お詠みになった和歌の中では、どの歌を優れているとお思いですか?
他の人があれこれと議論していますが、それをそのまま採用するわけにはいきません。はっきりとお伺いしようと思う。』と申し上げたところ、

『夕方になると、野原の秋風が身にしみて感じられて、うずらが寂しく鳴くようだ、この深草の里では

この歌を、自分にとっては代表歌だと思います。』と言われたが、

俊恵がまた言うことには、『世間で多くの人が申しますのは、

目の前に満開に咲く桜の花を思い浮かべて、それを求めていくつの峰を越えてきたことか。白雲を通して。

この歌を優れているように申しますのは、どうでしょうか?』と申し上げると、
『さあどうでしょうか、他ではそのようにも定めているでしょうか、私は知りません。やはり自分では、先に申し上げた歌とは比較することはできません。』ということでした。」と、語って、

これについて内密に私に申したことには、「あの歌は『身にしみて』という第三句がとても残念に思われるのだ。 これほどの境地になった歌は、具体的な景色や詩的雰囲気をさらりと詠み表して、ただ言葉にせずともなんとなく身にしみたことだろうよと思わせたのこそが、奥ゆかしくもあり優れてもいます。 しかしこの歌は、順を追って詠んでいって、歌の最も大事なところとするはずの点を、「身にしみて」とあっさりと言葉で表しているので、ひどく趣が浅くなってしまったよ。」と言って、

そのついでに、「私の歌の中では、

吉野山が一面に曇って雪が降ると、麓の村里では冷たい時雨が降り注いでいるよ

というこの歌を、代表歌にしようと思います。
もし私の死んだ後で、俊恵の代表歌がわからないと言う人がいたら、『このように言っていたよ』とお話しください。」と話した。

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