肝試し(文学史・本文・現代語訳・解説動画)

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今回は『大鏡』の「肝試し」を解説していきたいと思います。

文学史

作者

未詳

成立

11世紀末までに成立

ジャンル

歴史物語

内容

歴史物語の最高傑作と呼ばれ、紀伝体で書かれている。「四鏡」の第一作。大宅世継(おおやけのよつぎ)夏山繁樹(なつやまのしげき)という2人の老人が語る形式。藤原道長を中心に描くが、道長賛美で終わらない鋭い批判精神がある。

本文

さるべき人は、とうより御心魂のたけく、御まもりもこはきなめりとおぼえ侍るは。

花山院の御時に、五月下つ闇に、五月雨も過ぎて、いとおどろおどろしくかき垂れ雨の降る夜、帝、さうざうしとや思し召しけむ、殿上に出でさせおはしまして遊びおはしましけるに、人々、物語申しなどし給うて、昔恐ろしかりけることどもなどに申しなり給へるに、

「今宵こそいとむつかしげなる夜なめれ。かく人がちなるだに、気色おぼゆ。まして、もの離れたる所などいかならむ。さあらむ所に、一人往なむや。」

と仰せられけるに、

「えまからじ。」

とのみ申し給ひけるを、入道殿は、

「いづくなりとも、まかりなむ。」

と申し給ひければ、さるところおはします帝にて、

「いと興あることなり。さらば行け。道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠、道長は大極殿へ行け。」

と仰せられければ、よその君達は、便なきことをも奏してけるかなと思ふ。
また、承らせ給へる殿ばらは、御気色変はりて、益なしと思したるに、入道殿は、つゆさる御気色もなくて、

「私の従者をば具し候はじ。この陣の吉上まれ、滝口まれ、一人を『昭慶門まで送れ。』と仰せ言賜べ。それより内には一人入り侍らむ。」

と申し給へば、

「証なきこと。」

と仰せらるるに、

「げに。」

とて、御手箱に置かせ給へる小刀申して立ち給ひぬ。
いま二所も、苦む苦むおのおのおはさうじぬ。

「子四つ。」

と奏して、かく仰せられ議するほどに、丑にもなりにけむ。

「道隆は右衛門の陣より出でよ。道長は承明門より出でよ。」

と、それをさへ分かたせ給へば、しかおはしましあへるに、中関白殿、陣まで念じておはしましたるに、宴の松原のほどに、そのものともなき声どもの聞こゆるに、術なくて帰り給ふ。
粟田殿は、露台の外まで、わななくわななくおはしたるに、仁寿殿の東面の砌のほどに、軒とひとしき人のあるやうに見え給ひければ、ものもおぼえで、

「身の候はばこそ、仰せ言も承らめ。」

とて、おのおの立ち帰り参り給へれば、御扇をたたきて笑はせ給ふに、入道殿は、いと久しく見えさせ給はぬを、いかがと思し召すほどにぞ、いとさりげなく、ことにもあらずげにて、参らせ給へる。

「いかにいかに。」

と問はせ給へば、いとのどやかに、御刀に、削られたる物を取り具して奉らせ給ふに、

「こは何ぞ。」

と仰せらるれば、

「ただにて帰り参りて侍らむは、証候ふまじきにより、高御座の南面の柱のもとを削りて候ふなり。」

と、つれなく申し給ふに、いとあさましく思し召さる。
異殿たちの御気色は、いかにもなほ直らで、この殿のかくて参り給へるを、帝よりはじめ感じののしられ給へど、うらやましきにや、またいかなるにか、ものも言はでぞ候ひ給ひける。

なほ疑はしく思し召されければ、つとめて、

「蔵人して、削り屑をつがはしてみよ。」

と仰せ言ありければ、持て行きて押しつけて見たうびけるに、つゆ違はざりけり。
その削り跡は、いとけざやかにて侍めり。

末の世にも、見る人はなほあさましきことにぞ申ししかし。

現代語訳

そのような人(=栄華を掌中にするほどの方)は、お若い頃からご胆力が強く、神仏のご加護も強いものらしいと思われることですよ。

花山院のご在位の時、五月下旬の闇夜に、五月雨といってもあまりに強く、ひどく気味悪く激しく雨が降る夜、帝は、手持ち無沙汰で物足りなくお思いになったのでしょうか、殿上の間にお出ましになって管弦の遊びなどをなさっていた時に、人々が、世間話を申し上げなどなさって、昔恐ろしかった話などを申し上げるようにおなりになったところ、(帝は)

「今夜はひどく気味が悪そうな夜のようだな。こんなに人が大勢いてさえも、不気味な感じがする。まして、遠く離れた場所などはどうであろうか。そんな所に一人で行けるかね。」

とおっしゃったところ、(みなは)

「とても参れないでしょう。」

とばかり申し上げなさったが、入道殿(=道長)は、

「どこへなりと参りましょう。」

と申し上げなさったので、そんな(ことがお好きな)ところのおありになる帝で、

「本当におもしろいことだ。それならば行け。道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠、道長は大極殿へ行け。」

とお命じになったので、三人以外の君達は、(入道殿は)都合の悪いことを奏上したことだなと思う。また、(ご命令を)承りなさった(兄の)殿たちは、お顔の色が変わり、困ったことだと思っていらっしゃるのに、入道殿は、まったくそんなご様子もなくて、

「自分の従者は連れて行きますまい。この近衛の陣の吉上でも、滝口の武士でも、一人を『昭慶門まで送れ。』という勅命をお下し願います。そこから中には一人で入りましょう。」

と申し上げなさると、

(帝は)「(一人で行っては)証拠がないぞ。」

とおっしゃるので、

(入道殿は)「なるほど。」

と言って、(帝が)御手箱に置いていらっしゃる小刀をもらい受けて席をお立ちになった。もうお二人(=道隆と道兼)も、いやいやながらそれぞれお出かけになった。

(近衛の官人が)「子四つ。」と(いう時を)奏上する声があって、このようにおっしゃって相談しているうちに、丑の刻にもなっていたであろう。

「道隆は右衛門の陣から出よ。道長は承明門から出よ。」

と、それ(=出る所)までも別になさったので、そのように(命令どおり別々に)お出かけになりましたが、中の関白殿(=道隆)は、陣までは我慢してお行きになったが、宴の松原の辺りで、何とも得体の知れない声がいくつも聞こえるので、どうしようもなくてお帰りになる。粟田殿(=道兼)は、露台の外まで、ぶるぶる震えてお行きになったが、仁寿殿の東側の砌(=敷石)の辺りに、軒と同じ背丈の人がいるようにお見えになったので、気が動転して、

「わが身が無事であってこそ、帝のご命令も承れるだろう。」

と(思って)、それぞれ引き返して参上していらっしゃったので、(帝は)御扇をたたいてお笑いになりますが、入道殿はたいそう長い間姿をお見せにならないので、どうしたのかと思っていらっしゃるうちに、本当にさりげなく、何でもないふうで帰参なさった。

(帝が)「どうしたどうした。」

とお尋ねなさると、まったく落ち着いて、(先ほどの)御刀に、(刀で)削り取られた物を取りそろえて献上なさるので、

「これは何か。」

とおっしゃると、

「手ぶらで帰参いたしましては、証拠がございませんでしょうから、高御座の南側の柱の下の方を削ってまいりました。」

と、平然と申し上げなさるので、(帝は)本当に驚きあきれたことだとお思いになる。他のお二人の殿(=道隆と道兼)のお顔の色は、どうしてもやはり直らないで、この入道殿がこうして帰参なさったのを、帝をはじめ一同思わず賞賛の声をお上げになったけれど、うらやましいのか、それともどうなのか、ものも言わずに控えていらっしゃった。

(帝は)それでも、疑わしくお思いになられたので、翌朝、

「蔵人に命じて、削り屑をもとの所に当てがわしてみよ。」

とご命令があったので、(蔵人が)持っていって押しつけてご覧になったところ、少しも違わなかった。その削り跡は、(今でも)たいへんはっきりと残っているようです。後の世でも、(その削り跡を)見る人はやはり驚きあきれたことのように申したことだよ。

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