忠度の都落ち(文学史・本文・現代語訳・解説動画)

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今回は『平家物語』の「忠度の都落ち」を解説していきたいと思います。

文学史

作者

信濃前司行長か?

成立

1221年ごろ

ジャンル

軍記物語

内容

平清盛を中心とした平家一族の栄華と横暴、清盛死後の木曽義仲による平家の都落ち、源義経による壇ノ浦での平家の滅亡を描く。

文章は典型的な和漢混交文で、琵琶法師によって「平曲」として語られた。

本文

薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん、侍五騎、童一人、わが身ともに七騎取つて返し、五条三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。

「忠度。」

と名のり給へば、

「落人帰り来たり。」

とて、その内騒ぎ合へり。薩摩守、馬より下り、みづから高らかにのたまひけるは、

「別の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門を開かれずとも、この際まで立ち寄らせ給へ。」

とのたまへば、俊成卿、

「さることあるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ。」

とて、門を開けて対面あり。事の体、何となうあはれなり。薩摩守のたまひけるは、

「年ごろ申し承つてのち、おろかならぬ御事に思ひ参らせ候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。撰集のあるべき由(よし)承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出できて、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存ずる候ふ。世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻き物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をかうぶつて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ。」

とて、日ごろ詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。

三位これを開けて見て、

「かかる忘れ形見を賜はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず。さてもただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ。」

とのたまへば、薩摩守喜んで、

「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して。」

とて、馬にうち乗り甲の緒を締め、西をさいてぞ歩ませ給ふ。三位、後ろをはるかに見送つて立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、

「前途ほど遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す。」

と、高らかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ。

そののち、世静まつて『千載集』を撰ぜられけるに、忠度のありしありさま、言ひおきし言の葉、今さら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「よみ人知らず」と入れられける。

さざなみや志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな

その身、朝敵となりにし上は、子細に及ばずと言ひながら、うらめしかりしことどもなり。

現代語訳

薩摩守忠度は、どこからお戻りになったのだろうか、侍五騎、童一人(を連れて)、自分とあわせて七騎で引き返し、五条の三位俊成卿の屋敷にいらっしゃってご覧になると、(俊成卿の屋敷は)門を閉じて開かない。「(わたしは)忠度です。」と名のりなさると、「落武者が帰ってきた。」と言って、屋敷の中では騒ぎ合っている。薩摩守は馬から下り、自ら大声でおっしゃったことには、「特別のわけはございません。三位(=俊成)殿に申し上げたいことがあって、忠度が帰って参ったのでございます。門をお開けにならなくても、この(門の)そばまでお立ち寄りください。」とおっしゃると、俊成卿は、「しかるべき(帰ってくる)事情があるのだろう。その人(=忠度)ならば差し支えあるまい。お入れ申し上げよ。」と言って、門を開けて対面なさる。その場の様子は、全てがしみじみと感慨深いものがあった。

薩摩守がおっしゃったことには、「ここ何年と(和歌を)ご指導いただいて以来、(あなたのことを)並み一通りでなく大事な御方に思い申し上げておりましたが、この二、三年は、京都の騒乱、国々の乱れ、全て当家の身の上に起きたことでございますので、(あなたを)ないがしろにしようとは思っていませんでしたが、常にお伺い申し上げることもありませんでした。主上(=安徳天皇)は既に都をお出になりました。平家一門の運命はもはや尽きてしまいました。(ところで勅撰和歌集の)撰集があるだろうということを承っておりましたので、(わたしの)生涯の名誉のために、(せめて)一首なりとも(あなたの)ご恩情をこうむろう(=勅撰集に入集させていただこう)と存じておりましたのに、すぐに世の乱れが起きて、その(撰集の)ご命令がございませんことが、ただわが身一身の嘆きと存じております。(この戦乱が終わり、)世が静まりましたならば、勅撰のご命令もございますでしょう。(その際には)ここにございます巻物の中に、(勅撰集に入集するのに)ふさわしい歌がございますならば、一首なりともご恩情をこうむって(入集させていただき)、草葉の陰にいてもうれしいと存じますならば、遠いあの世から(あなたを)お守りいたしましょう。」と言って、 常日ごろ詠み置きなさった和歌の中から、秀歌と思われる和歌を百首余り書き集めなさった巻物を、今は(これまで)と(思って、都を)出立なさった時に、これを取ってお持ちになっていたのだが、(それを)鎧の引き合わせから取り出して、俊成卿に差し上げる。

三位はこれを開けて見て、「このような忘れ形見をあらかじめ頂戴いたしました上は、決しておろそかに思いますまい。お疑いなさいますな。それにしてもただ今のご訪問こそ、風雅な心も際立って深く、しみじみとした情趣もとりわけ感じられて、感動の涙が抑えがたくございます。」とおっしゃるので、薩摩守は喜んで、「今はもう西海の波の底に沈むならば沈んでもよい、山野にしかばねをさらすならさらしても構わない。この浮き世に思い残すことはございません。それではお別れを申し上げて。」と言って、馬に乗り、甲の緒を締め、西を指して(馬を)進ませなさる。三位は(忠度の)後ろ姿を遥か遠くになるまで見送って、立っていらっしゃると、忠度の声と思われる声で、「前途程遠し、思いを雁山の夕べの雲に馳す。(=これから進み行く先ははるかに遠い、途中越えていく雁山の夕暮れの雲を思いやると、お別れがつらくてなりません。)」と(いう句を)、声高らかに口ずさみなさるので、俊成卿は、いっそう名残惜しく思われて、涙を抑えて(邸内に)お入りになる。

その後、(源平の合戦が終わり)世が静まって、(俊成卿が)『千載和歌集』を撰集なさった時に、忠度のあの時のご様子、言い残した言葉を、今改めて思い出してしみじみと感慨深く思われたので、例の(忠度から預かった)巻物の中に、(勅撰集に入集するのに)ふさわしい歌はいくらでもあったのだけれども、天皇のとがめを受けた人なので、姓名を明らかになさらずに、「故郷の花」という題でお詠みになった歌を一首、「よみ人しらず」としてお入れになった。

志賀の旧都は荒れてしまったが、長等の山の山桜は、昔のままに美しく咲いていることだなあ。

その身が、朝敵となってしまったからには、とやかく言ってもしかたがないとは言うものの、残念なことであった。

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